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当たり前の幸福
「じゃあ僕、先に帰りますね」
二時間半居座った飲み屋の前でサークル仲間に背を向け、伊藤弘幸は細い路地を右に曲がった。ビルの壁で姿は消えても、聞き慣れた笑い声は止まない。短いスカートの若い女が連れ立ってあるいていて、その視線が気になって、耳を塞ぐこともできない。ギャハハハ、と爆発的な笑いが響き、弘幸は大股でその場から遠ざかった。
二年前の夏、弘幸はクラスメイトに誘われてバドミントンサークルに入った。三回行ったミーティングはすべて飲み会で、新入生歓迎会のようなものなのだろうと思っていたが、違った。二年間通い続けて、弘幸は一度もまともにバドミントンのラケットすら握らなかった。「うちは厳しいサークルじゃないから、気軽においでよ」と言った先輩の言葉は嘘ではなかったけれど、実状には正直うんざりした。入る前は、バドミントンなんか別にやりたくもなかったのに、飲み会ばかりやっているとなんとなく詐欺にあったような気分になり、何人かを誘って構内の広場で打ち合いを始めたが、それもすぐに飽きた。誘った奴らは先輩に呼ばれるとすぐにラケットを放り出したし、それを引き留めてまで打ち合いを続けるほどの情熱はなかった。
「あのう」
駅の切符売り場のところで、後ろから声をかけられた。振り返るとそこに居たのはさっき別れたばかりのサークルの新入生の女の子だった。
「一緒に帰ってもいいですか?」
わざわざ追いかけてきたのだろうか。弘幸は人通りを避けて細い裏路地ばかり選んで歩いてきたから、さぞかし見つけるのに苦労したことだろう。
「ああ、いいけど、飲み会はもういいの?友達とか、まだ残ってるんじゃない?」
いいんです、と言って俯く顔はまだ幼い。面倒くさい、という思いが一瞬頭を掠めたけれど、無碍に断る口実も思いつかず、結局一緒に改札を潜った。
一週間ほどして、弘幸は彼女と付き合い始めた。軽い気持ちで誘った食事から始まり、毎週のように約束をして、ドライブや映画を見に行った。めぼしい遊び場も三ヶ月で回りきり、肉体関係を繋いだ後は、あっさりと興味が失せた。最近、彼女はしきりに実家に弘幸を連れて行きたがる。その都度弘幸は「気分が悪い」とか「忙しい」と言って誤魔化していたが、彼女もだんだん不満を募らせている。不機嫌な顔で「弘幸、本当は私のこと好きじゃないんじゃないの?」と聞かれる度に機嫌を取るのも正直飽きた。
関係に飽きても彼女に別れを告げないのは、サークルが同じだからだ。振ってごねれば角が立つし、短い付き合いの中で弘幸は彼女の性格もおぼろげながらつかんできた。彼女は間違いなく友人たちに不満を吐き出すだろう。そして、彼女の友人たちは、噂好きのかしましい女性で構成されている。もめ事はごめんだった。
部屋の鍵を開けてソファに沈み込むと、途端に力が抜けた。重い瞼に逆らわずに目を閉じる。思いの外ぐったりしている自分に気づき、上着の胸ポケットからミントを取り出して口に放り込む。
「おかえり。いつ帰ったの?」
パジャマ姿のみゆきが寝室からでてくる。弘幸は心の中で舌打ちした。せがまれて合い鍵を渡してから、みゆきはアポイントも取らずに上がり込むようになった。まるで自分の家のように振る舞い、弘幸の部屋の隅に小さなスペースまで作った。肩に掛かったタオルを見て、今更ながらに腹が立った。水色のロゴが刺繍された分厚いタオルは、昨日卸したばかりのものだ。
「ねえ、返事くらいしてよ」
うっとうしくなって、肩を揺する手を払いのける。弘幸の予想に反して、パシン、と大きな音が響いた。しまった、と思ったときにはすでに遅く、みゆきの顔はみるみる歪んでいく。
「なにすんのよ」
醜い顔をみたくなくて顔を背けると、背けた先まで視線が追ってくる。いつもならすらすらと口から滑り出すフォローの言葉は、今日に限って一つもでてこなかった。
「疲れてるのかと思って心配したんじゃない。それが愛する妻に対する態度?」
妻、の一言にピクンと耳が動く。
「妻?いつ結婚したんだよ」
「はあ?だってもう一緒にすんでるじゃない」
「お前が勝手に上がり込んでるだけだろ?」
「なによそれ・・・」
愕然とするみゆきの顔をみて、弘幸は焦り始めた。自分はこの女と結婚することになるんだろうか。結婚、という言葉が頭の中にイメージを描き出して、想像の中のみゆきとの結婚生活に、漠然と「いやだ」と思った。結婚するなら、もっと大人しくて優しい年上の女がいい。
「俺はお前と結婚する気はないから」
「は?何言ってんの」
「今すぐ出てって。もううんざりなんだよ、お前の顔」
怒りに歪んでいた顔が今度は涙に歪み、面倒くさくなって弘幸は部屋を出た。
保険証と免許証は財布の中に入っている。とっさに携帯と財布は掴んで持ってきた。もうすぐ夏だというのに夜道は肌寒くて、上着を持ってこなかったことを後悔する。イライラした気分にまかせて歩く速度が徐々に遅くなり、歩調がゆっくりになるころには虚しくなった。自分の部屋なのに、どうして逃げるように走り出てこなければならなかったのだろう。安易に部屋にあげ、鍵まで渡してしまったのは自分だ。
こんな夜中に、行く当てもなく一人路地を歩いている自分の姿を思って、また沸沸と怒りが涌いてくる。誰かの家に転がり込もうかと携帯のアドレス帳を手繰っても、夜中に気安く泊めてくれる知り合いなんていない。もともとそれほど登録数の多くない弘幸のアドレス帳は、すぐに「ワ行」の最後まで到達した。札入れに詰まったレシートの中からマンガ喫茶の会員カードを引っ張り出す。平日だし、満室ということはないだろうと当たりをつけて大通りへの道を選んだ。行く先が決まるとなんとなく元気が出て、普段は通らない暗くて細い駅への近道を通ってみようという気になった。路地に入る角を左に曲がってすぐに弘幸は後悔した。そこには、左腕を血塗れにした男が立っていた。
歩いてきた男を、弘幸はその場に凍り付いたまま凝視した。血塗れになった白いワイシャツの左腕をだらりと垂らし、右手には何か光るものを持っている。
ーーーナイフだ、ととっさに思った。
自分がとてもまずい状況に置かれているのを頭で理解しているのに、体は不自然なくらい冷静にその場に立ち尽くしていた。
急ぐでもなく、壊れかけのロボットのような奇妙な動きで近づいてきた男は、弘幸の腹部に拳を叩き込んだ。吸い込まれるように腹に埋まっていく男の拳を見て、刺されたと思った。何度も腹を殴られて、痛みと嘔吐感で少し吐いた。うずくまる弘幸に多い被さった男がベルトを外すカチャカチャという音が響く。こんな時だというのに、体中がだるくて、ズボンの中に潜り込んできた冷たい手を
引き剥がそうと振り上げた拳は、虚しく宙を掻いて地面に落ちた。叩きつけるように地面に俯せに倒され、コンクリートの凹凸で顔が擦れ、ジワリと血が滲んだ。ズボンが膝まで引きずり降ろされ、湿った皮膚が冷たい外気に晒される。首の裏に金属の感覚が当たり、ヒュッとのどが鳴った。
ちりっとした微かな痛みが走っても、体が重くて碌に動く気にならない。瞼が重くて、吐き気がする。弘幸はぐったりと地面に突っ伏して、痛みに耐えた。屈辱とか羞恥とか、そんなものを感じる間もなく、ただ降って涌いた理不尽な不幸が行き過ぎるのを、待っていた。揺さぶられて、船酔いのように絶え間なくおそってくる吐き気に耐えて振り返ると、目を見開いて泣きそうな顔をしている男の顔が、薄暗い伝統の逆光に照らされて、そこにあった。なんでこの男はこんなおびえたような顔をしているのだろう。加害者らしくない。もっと悪そうな顔をしていればいいのに、と思ってしまってから、妙なことを考えている自分に気づいた。不意におかしくなって、弘幸は笑った。
気がつくと公園の植え込みの中だった。体の節々が痛くて、身を起こすと激しい頭痛でまたツツジの茂みの中に逆戻りした。植え込みから這いだして、家までふらふらしながら帰った。ベッドに倒れ込んで、すぐに気を失った。
何度か目を覚ましてはベッドに倒れ込んだ。幾度目かに目を覚ますと、ベッドサイドにみゆきがいた。額に手を当てている。
「熱計るから、これ脇に挟んでて。三分くらいかな」
大人しく体温計を挟んでじっとしている間に部屋を見回す。ベッドサイドには看病の後が伺えた。
「いつ来たんだ」
「一時間くらい前。ゼリーとかアイスとか、冷蔵庫に入ってる。お粥もできるけど、食べる?」
「いや、いい」
みゆきは体温計を取り出して文字盤を眺め、「熱はだいたい下がったみたいね」とつぶやいた。顔を洗うように両手で覆うと、だんだんと頭が冴えてくる。路地裏で覆い被さってきた影、生々しい粘膜の感触。記憶がよみがえると今更ながらに嫌悪感がよみがえる。そういえば、昨夜は風呂に入っただろうか。急に自分が汚れているような気がして、シャワーを浴びるために浴室に向かった。
何度も体を擦って汗を流して出てくると、みゆきは居なくなっていた。洗面所に放り出してあった携帯を開くと、メールで「バイトに行くから」とあった。ふと覗き込んだゴミ箱に白い布の固まりが捨ててあり、広げてみるとそれは昨日着ていたシャツで、あちこちに赤黒いシミがついていた。シャツをまるめて元の通りゴミ箱に突っ込み、ベッドに体育座りをして携帯を握りしめた。
みゆきが残していった冷たいタオルやケースにきちんとしまわれた体温計が目に付いた。
「バイトなんか行くなよ・・・・・・」
こんな時ばかり、みゆきが恋しくて仕方がなかった。
一ヶ月が順調にすぎていった。
汚れたシャツをゴミに出し、熱も下がって、頬の擦り傷の瘡蓋もとれて、弘幸は日常に戻った。みゆきは相変わらず勝手にやってきては掃除や洗濯をしていく。みゆきの持ち込んだ私物はどんどん増えて、とうとう一部屋を占領してしまった。少し前ならイライラの種だったろうけれど、近頃ではあまり気にならない。みゆきには、あの夜のことは話していない。もう済んだことで、話したところでどうしようもないし、弘幸自身、思い出したくもなかった。近所で事件が起きたというニュースはなかったし、もう忘れようと思った。
先日、アクセサリーショップで指輪を買った。それほど高いものではないけれど、できるだけ品のよい物を選んだ。みゆきが帰ってきたら、久しぶりに食事に誘って渡そうと思う。携帯の画面にメールの着信アイコンが表示される。「終わったよ。今から帰るね」弘幸は車のキとプレゼントの指輪の包みを掴んで、部屋を出た。
END